おとなの読書感想文

恋愛小説から自己啓発まで。26歳OLの読書感想文。

かなしくて、すがすがしいー『落下する夕方』江國香織

 

幼いころ、住宅展示場でもらった風船を不意に手放してしまった瞬間を、よく覚えています。

細い紐が、ちいさな手の中をすり抜けていく。

「ああ、手放してしまう」と、頭のどこかでわかっていたような気がするのだけれど
ひらきかけた手のひらを閉じることもできず

涙があふれてくるのだけれど
スローモーションのように飛んでいく風船は、夏の空に映えて美しく

かなしみとすがすがしさが背中合わせであるということを、はじめて知った瞬間だったような気がします。


「引っ越そうと思う」
8年間付き合った恋人(健吾)が、主人公である梨果に別れを告げるところから、物語ははじまります。

別れの原因は、華子というひとりの女性。
華奢で美しく、子どものように無邪気で狡猾。健吾はこの女性とたった一度出会っただけで、8年間ともに過ごした梨香との別れを決意するほどに、魅了されてしまうのです。

そんな華子が、あろうことか梨果の家に転がり込んできてしまいます。
新聞紙にくるまって梨香の帰りを待つ華子。
まるで天気の話でもするかのように「健吾さんと寝たわ」という華子に、心臓を握り潰されたように傷つく梨香。
それでもときには、くちびるをひからせながら天ぷらを食べる(小食なのでほとんど残してしまうのだけれど)華子をいとおしく感じたり、
突然旅行に出ていってしまう華子に狼狽させられたり……。

大好きだった健吾が、大好きになった華子との共同生活を、梨香は泣き叫ぶでもなく、誰かを責めるわけでもなく、ただただ受け入れていくのです。
まるで、手放した風船が飛んでいく空を、立ち尽くして見上げるこどものように。

これは、ひとりの女性が愛する男性をうしなってゆく物語です。
「引っ越そうと思う」と告げられたあの日から、15か月という時間をかけて。


梨香と健吾を振り回しながら、いつしか2人を結ぶ唯一の存在となっていた華子は、15か月後に思わぬかたちで姿を消してしまうのです――

 

----------------------
江國香織の描くかなしみは、どんなに手を伸ばしても届くことのない澄み切った青空のように、
途方に暮れるほど残酷で、美しいといつも感じます。

 

最後に、江國香織の詩集「すみれの花の砂糖づけ」から、こんな詩を紹介します。

 

「私をうしないたくない と/ あなたはいうけれど/ 私をうしなえるのは/ あなただけよ

遠くにいかないでほしい と/ あなたはいうけれど/ 私を遠くにやれるのは/ あなただけよ
びっくりしちゃうな/ もしかしてあなた/ 私をうしないかけてるの?」

 


誰かをうしなうということ。

その事実を受け入れるということ。

江國香織の紡ぐかなしみが、沁みわたっていく物語です。